NHKスペシャル 認知症800万人時代▽行方不明者1万人~知られざる徘徊の実態

「NHKスペシャル 認知症800万人時代▽行方不明者1万人~知られざる徘徊の実態」は、徘徊で線路に出てしまって、電車を止めてしまい賠償を払うことになる。結局家に閉じ込めておくことになる、といったことを。

一見新しい問題のようですが、実は知的障碍者の家族は昔からそういったことに悩まされ続けてきたんですよね。


地域社会でSOSのネットワークを作って徘徊をみつけようとするのですが、ネットワークがなかなか構築できない。家族が痴呆でも隠してしまう人もいるとのこと。

これは地域社会を壊してきたのがあるでしょう。

もう一つの核心的な理由は、明治以降にこういった人を異端者として排除してきたことです。


「恥ずかしいから」近所の人に妻が痴呆だとは言えない、ということを言っていましたが、排除される社会ではそういう行動が合理性を持ってしまうんですよね。

そのような社会を作ってきたことが問題なのです。


恥ずかしいと隠している人は、逆にそういう人を見たときにその人のことを恥ずかしいと考えている人なんですよね。そういう心の文化を作って放置してきてしまった事のつけが回っているのだといえます。




これがこの問題の一番の核心だと考えます。








TBSのサンデーモーニングの「風をよむ」の憲法特集はほんの一部分だけみましたが、古いという批判を受けたところから始まり、改憲派の岸井主筆が、「時代に合わせて変わるべきだ」と締めくくっておしまい。

憲法と言ってもいろいろありますが、ここでは平和憲法が話題になっていたはずで、そこを改憲しろ、という話でしょう。


ゲンダイなどは、良識派の親父たちはさじを投げた、などと、下の世代に対して責任が無いかのような記事を出していますが、スタジオには大宅映子もいますし、これだけ右派の人間を公共の電波で朝から出して、影響が甚大でないわけがありません。それはテレビの保身なんだと思います。








9日の報ステでは「「集団的自衛権容認」へ動き加速」(http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=38450)では「集団的自衛権は(中略)日本を守るものじゃないんですね」と國分功一郎さんがVTRの根本的な誤りを指摘。

本当にその通りで、学者系の人でも平気で、周辺各国の軍事的圧力を理由に9条の改憲を主張する、もしくは容認する人が多いことに、論理の齟齬を感じていました。

むしろ各国の警戒とそれによる軍事的圧力の高まりを招き、国の防衛にとってはマイナスなのです。


集団的自衛権の「集団的」という言葉の意味と、字面が国民に想起させる内容に決定的に隔たりがあるのだと思います。それはアメリカからの圧力によって改憲を目指す自民のイメージ操作であって、メディアはそこが歪まないように本来ならニュースを伝えねばなりません。






「ナスカの地上絵で山形大が新発見」(http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/news/detail.php?news_id=38440)では國分さんはご自身の専門の哲学を始め、考古学はいろいろな分野に影響を与えている、と重要性を強調。

本当にそうで、学者の人とかでも、今だけ知っていればよいや、歴史は過去だし、といったような人に限って歴史認識からくる偏見に自分が拘束されていることに無自覚なことが多いです。特に近世以前は無視されやすい。趣味の領域だと思われていたりする。


國分さんはギリシャ哲学を例に挙げていましたけど、たとえば「吉村作治 彼ら(古代ギリシャ人)はオリジナリティはなかったんですね」(「インカとエジプト」 (岩波新書) 増田 義郎 (著), 吉村 作治 (著)193ページ)というのも考古学の成果でしょう。「吉村作治 エジプトが達成したものを、整理して、うまく配置して、のちにつなげた」(同)のが彼らの役割だったとのこと。

こういうことがわかりますと、哲学そのものや、歴史の展開そのものの捉え方やその付随物に対する認識がガラッと変わってきますよね。



私が江戸時代の最新の研究成果を良く引用するのもそうで、これは東洋哲学・文化の評価と直結します。そしてそういった歴史学の進歩から、国際的に観てもかなりすぐれた、個性的な社会・文化を構築していた、ということがわかってきたんですね。

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